尾張の建物について

もう少しだけ堅苦しいお話にお付き合い下さい。

前回同様、愛知県史等刊行物等より抜粋の内容にて尾張の概要を知る所から始めたいと思います。

 

Temple ~寺院~

愛知県内では、四世紀から五世紀に数多くの古墳が築造されており、地方豪族の進出にともなって六世紀から七世紀には仏教文化の流入があったとみられる。

 

しかし、寺院建築が本格的に造営され始めるには、奈良時代の文化の改新(645)、壬申の乱(672)後の律令体制が確立してからのことで、天平十三年(741)に聖武天皇が国家鎮護、五穀豊穣を祈って全国に国分寺、国分尼寺が建設され、三河国分寺は昭和60年代の発掘によれば、一辺が180メートルほどの正方形の寺地を築地塀によって囲み、その東半分に南大門、中門、金堂、講堂を南北一直線上に並べ、中門と金堂の間に中庭を囲むように回廊をめぐらし、西半分の前方に塔を建てていたと考えられている。

 

また、国分尼寺は近年の発掘調査によると、約150メートル四方の寺地の中央に南大門、中門、金堂、講堂、尼房などを縦一列に並べ、中門と講堂との間に中庭を設け、この中央に金堂がおかれ、その後方両脇に鐘楼と経蔵がおかれたと考えられており、古代の官寺では地方においても本格的伽藍建築が造営されたとみられる。

 

Shrine ~神社~

我国の神社信仰は、水稲農業と深く関わり、豊穣を願い、自然の脅威に対する畏怖の念を背景にして山、森、水など自然を信仰の対象とし、神々の降臨する場を神社の起源とする見方がある。

 

神々の宿る場として、また神宝を奉安する場としての神殿が求められるようになると、神殿には高床式の建築が充てられるようになったとされる。

 

神社では、神を祀る中心施設として本殿が建てられたが、祭神や地域による固有の本殿形式が形成されるようになり、神明造、大社造、住吉造、流造、春日造、八幡造、権現造などの形式を成立させてきた。

 

しかも、古代より中世・近世を通じてきわめて保守的にその形態を継承しつづけ、寺院建築のような内部空間の発展は見られなかった。

 

これは、寺院では本尊を中心として仏堂は建築的に大きな発展を遂げたのに対し、神社建築では建物の外観が重視され神殿内部は神々の空間とされ、建築内部への神事や礼拝に対する空間の要求が少なかったことによるものである。

 

愛知県の神社は「延喜式神名帳」(延喜五年・905)に挙げられているものは、尾張では、熱田神宮、真清田神社、尾張大国霊神社、大縣神社、田縣神社、針綱神社をはじめとする121社、三河では砥鹿神社、幡頭神社、久麻久神社をはじめとする26社があり、尾張には古くから多くの式内社があった。

 

尾張地方には、熱田神宮、真清田神社、尾張大国霊神社、大縣神社、津島神社などにみられる「尾張造」と呼ばれる社殿の配置形式がある。

 

これは、一般に蕃塀(ばんぺい)、拝殿、祭文殿、渡殿、本殿を南北軸線上に縦一列に配置するもので、蕃塀は透塀、拝殿は切妻造、・妻入とし、祭文殿は四脚門形式として両脇に回廊を延ばし、渡殿は祭文殿と本殿の庇に切妻屋根を架けたもので釣殿とも呼ばれ、本殿は流造の社殿が多いが、一定した形式はない。

 

Castle ~城郭~

愛知県には国宝に認定されている犬山城天守が存在しているが、一般に城郭の建築遺構はきわめて少ない。明治維新によって破却されたり散逸したりしたことと、とくに愛知県の場合、名古屋城が第二次世界大戦の空襲によって天守、本丸御殿を始め大部分が焼失してしまったからである。

 

建築遺構については各項目のところにおいて述べることとし、ここでは近世以降における主要な城郭の沿革をたどることとする。

 

中世末から近世初頭において尾張の支配的地位にあったのは清州城であり、豊臣秀吉による小田原征服の後、豊臣秀次が城主となり、さらに福島正則が封ぜられたが、関ヶ原の合戦の後、正則は慶長五年(1600)徳川家康によって広島に移封され、家康はわが子の松平忠吉を城主としている。

 

地理的な重要性を考慮してのことであろう。忠吉が慶長十二年に死去すると、家康はやはりわが子である未だ幼かった徳川義利(後の義直)を甲府から尾張へ移したが、慶長十四年一月、清州から名古屋への移転を決めている。

 

むろん家康自身が万事を決定したといえよう。清州城の建築についてはほとんど分かっておらす、名古屋への移転後はまったくさびれてしまったらしい。ただ名古屋城には清州城から移したという伝承のある建物がいくつかある。

 

すなわち名古屋城黒木書院(戦災焼失)、小天守(同)、西北隅櫓(現存)などである。とくに西北隅櫓は清州櫓と俗称されており、清州城小天守を移したものといわれてきたが、解体修理の結果、材の転用の可能性については肯定的ではあるものの、前身の建物については明確にすることはできなかった。

 

一方、小天守(戦災焼失)にもまた清州城小天守を慶長十六年(1611)六月に移したという伝承があったが、第二次世界大戦前における調査の結果、慶長十七年に大天守と同時に建てられたことが明白となり、この伝承は否定された。

 

犬山城の天守建築に関しては、犬山城の項目のところに詳しい。天守は外観三層、内部四階となっており、三階には千鳥破風と唐破風を付け、最上階に望楼になっていて、優美な姿を木曽川に面した小高い丘の上に見せている。この天守は金山城を移したとという伝承があったが、解体修理の結果、移築の痕跡は認められず、違建説は否定されている。

 

犬山城は当初現位置の東南にあたる木下に設けられたらしく、その後三光寺山に移されたとされているが、三光寺山が現天守のある山に隣接した三狐寺山であるとすれば、さらにその後現位置に建造されたものと考えられる。その時期は慶長六年(1601)と見られ、その時の城主は小笠原吉次であったと思われるが、なお諸説がある。その後、徳川義直の尾張入封に伴って、義直の傅役としての平岩親吉が城主に任じられ、親吉死去後は成瀬正成に変わり、以後成瀬家が代々城主として明治維新に至っている。しかし、天守以外には建物は全く遺っていない。

 

 名古屋城は、清州城に代わるものとして築城され、尾張一帯を支配する拠点とされた。戦力に長けた徳川家康にとっては、豊臣勢との対決を控え、大軍の総力戦となるべき前線基地としても、また東海道防衛のための城郭としても、清州城では不十分だと考えたに違いない。

 家康は名古屋に一大城郭を建造することとした。壕や石垣などの普請(土木工事)は、豊臣恩顧の西国大名達によるいわゆる天下普請によってなされた。彼らの経済力を弱めて謀反の意図を挫くといった理由があったのだろう。

 

■犬山城 (犬山市)

■名古屋城(名古屋市)

■名古屋城二ノ丸大手二之門(名古屋市)

■名古屋城旧二ノ丸東二之門(名古屋市)

 

Chasitu ~茶室~

愛知の茶室を語るには、茶人を語らなければならない。まず尾張徳川家の茶の湯、尾張と三河における民間の茶の湯について概説する。書院については茶の湯との関連の範疇に限ることにする。

 

尾張徳川家六一万九五〇〇石の初代藩主徳川義直は茶道に重きをおき、武野紹の孫・新右衛門仲定を招く。紹は千利休の師であり、利休と共に侘茶を大成した人物である。

 

仲定は織田有楽に仕えており、有楽から義直に推挙され、尾張藩では「茶道名家」として扱われている。尾張藩茶道には有楽流が多い。有楽流は、織田信長の末弟・長益=有楽斎が流祖である。

 

仲定の紹系のものも有楽流の影響をうけて伝わっていたと思われる。他に義直に仕えた御茶道に織部流の山本道伝や、二代光友の代に御茶道となった細川三斎門で一尾流の流祖となった一尾伊織。その弟でえ尾張藩三〇〇〇石の大身・玉置家の養子となった雪江などがいる。

 

三代綱誠の代には、有楽流から一派貞置流を興した信長の孫・貞置と、四〇〇〇石の大身として仕えた甥の貞幹が、茶道指南にあたる。尾張茶道名家として武野家、玉置家、織田家がある。八代宗勝の代には、尾張藩茶道が有楽流に統一されてくる。宗勝は代々織部流であった山本道伝と沖久伝を有楽流の松本見休の門下に送り、有楽流を学ばせる。

 

Private house ~民家~

 民家とは、農業、商業、漁業など、様々な生業、あるいは風土に対応した、近世以降の伝統的な住居の呼称として用いられ、地方に根ざした形式を示す武士住居なども、ここに含まれる場合がある。

 

民家は生活形態が直接反映され、生業や時代、地域の相違により多様に変化するが、愛知県の場合、建築の形態を決定づける気象条件はなく、また関東と関西の中間に位置して、否応なく東西の文化が伝えられた。

 

そのため立地の相違により、農村部に立地する農家、町場に立地する町家に大別され、建築形態も、概ねこの相違に対応するとみてよい。以下では地域性の観点から、愛知県の民家について概説する。

 

民家が経年に耐えうる作りとなったのは、それほど古くない。愛知県下で史料的に確認できる遺構として、農家では、承応元年(1652)建造の服部家住宅(弥富町、国重文)が全国的に見ても古い事例として注目される。

 

町家では、改造が認められるものの、享保七年(1722)建造とも伝える伊藤家住宅(名古屋市、県文)の主屋部分はもっとも古い遺構のひとつとなろう。また明和二年(1765)建造の旧堀田家住宅(津島市、国重文)も年代が確定できる古い事例である。

 

農家の全般的な傾向としては、形態は直家(一般的なひとつ棟の屋根)が基本とみてよく、平面形では、主たる居室の配置が田の字となる整形四間取と、その前段階としての三室広間型が主流となっている。

 

■伊藤家住宅(名古屋市)

■又兵衛(旧坂上家住宅)(名古屋市)

■服部孫兵衛家住宅(名古屋市)

■服部幸平家住宅(名古屋市)

■旧堀田家住宅(津島市)

■富田家住宅旧主屋(岡崎市)

■旧糠谷縫右衛門住宅(吉良町)

■旧山内家住宅(豊田市)

■望月家住宅(新城市)

■熊谷家住宅(豊根村)

■旅籠 大橋屋(音羽町)

 

Row of houses on a street ~町並み~

城下町、在郷町、港町、門前町、宿場町など、立地や機能により様々な形態の町が存在するが、町並みは、通り沿いに常設化した建築である町家が建ち並ぶことで成立する。

 

建築的にみた場合、町並みの成立の前提としては、安定した社会と町の存在が不可欠であり、現存する町並みの多くは近世に成立した。

 

近世に確立した町屋は、農家と対置うる生業的な性格を込めて町家と呼称されるが、通りに面した開口一杯に建て詰められるとともに、生業に応じて空間的な奥行きを持つ。よって町並みは、通りに面した家並みの連続に限定されず、空間的な広がりを持つ。

 

このように伝統的な構法や儀式による町家が建ち並ぶことで形成される町並みは、主として近世及び近世を継承した形式を保持している空間や景観が文化財として評価され、文化財保護法では「重要伝統的建造物群保存地区」として位置づけられている。

 

愛知県は、陸路、海路の双方で東西日本を繋ぐ位置にあり、戦略的な拠点も多い。陸路では、古代以来の主要な街道である東海道が通り、さらに東海道から各地域へ通ずる街道が延びていた。

 

海路では、関西と関東を繋ぐ中継地であり、伊勢湾や三河湾から木曽三川や矢作川などを経て内陸に至る水系も充実していた。そのため陸海の交通の結節点には多くの町が成立し、町並みが形成された。

 

濃尾平野を中心に土地の生産力は高く、有力な寺社の門前町や在郷町の形成も中世以来の蓄積があった。また、戦国末期から近世にかけて、町並みの繁栄は、両国の繁栄に直結することから、計画性を持った町の建設が進められた。

 

■東海道 佐屋街道 美濃路 伊那街道

■四間道(名古屋市)

■中小田井(名古屋市)

■有松(名古屋市)

■犬山(犬山市)

■津島(津島市)

■足助(豊田市)

 

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